東海道“五十七次”の旅 第2夜に迫る!タモリと巡る歴史とロマン
ブラタモリの2024年11月3日放送回は、タモリさんと佐藤茉那さんが東海道“五十七次”の旅の2回目として、京都競馬場や石清水八幡宮を巡る旅。東海道五十七次の中でも五十五番目の宿場町である京都・淀から旅が始まります。番組では、歴史的な背景に隠された徳川家の思惑や地形的な役割について解説されました。歴史と風景が織りなす淀とその周辺の魅力を、タモリさんと共に深掘りしていきます。
【ブラタモリ第一夜】徳川家康と東海道“五十七次”の旅|京都から伏見で歴史探訪|2024年11月2日放送
■ かつての淀とは?京都競馬場でその痕跡を探る!
京都競馬場と淀の歴史
京都競馬場は淀に開設されてから2025年で100周年を迎えます。この競馬場の中央には現在も池があり、この池はかつての巨大な「巨椋池(おぐらいけ)」の名残です。巨椋池は京都の南部に広がる非常に大きな池で、周囲の湿地帯と合わせて、江戸時代から昭和初期までの長い間、淀の風景と生活に大きな影響を与えていました。この池は昭和の初期に干拓され、農地などに転用されましたが、その後も淀周辺の地形には湿地の影響が色濃く残っています。
巨椋池が存在していた頃、淀は自然の要塞のような場所でした。周囲は水浸しの低地が広がり、湿地や川によって自然に防御された地形を持っていました。このため、淀の宿場町や城は、水際の防御線としても重要な役割を担っていました。特に京都競馬場が建てられたこの場所には、今もかつての巨椋池の痕跡が残っており、競馬場の中央に位置する池がその歴史的な名残りを伝えています。競馬場自体も、自然の地形を活かして設置された場所として、当時の水浸しの環境と共に発展した淀の面影を偲ばせています。
豊臣秀吉による堤防と宿場町の発展
巨椋池に囲まれていた淀の地形を大きく変えたのが、豊臣秀吉による堤防の建設でした。巨椋池周辺は洪水や浸水のリスクが高く、特に大雨の際には地域一帯が水浸しになることがありました。このため、秀吉は淀川の治水と地域の安全を確保するために、堤防の築造を進めました。この堤防によって巨椋池からの水流がコントロールされ、地域は大きな水害から守られるようになりました。結果として、淀は安全な場所としての価値が高まり、宿場町としての発展が可能になったのです。
この堤防の建設は、単に地域の治水を目的としただけではなく、豊臣秀吉の戦略的な考えが反映されていたと考えられています。秀吉は、京の都やその周辺地域を安全に保つことにより、権力の中枢である京都への道を守り、彼自身の支配体制を安定させる狙いがありました。巨椋池を囲む堤防によって洪水のリスクを低減することで、淀の地が戦略的にも交通の要所としても重要な拠点として整備され、江戸時代に至るまで、淀が宿場町として栄える基盤を築いたのです。
このようにして、淀の宿場町は安全な環境を提供するだけでなく、豊臣秀吉が構築した堤防がその発展を支えたことで、江戸時代の東海道五十七次の中でも特に重要な宿場町となりました。その後、徳川家康が引き継いだ時代には、淀はさらなる発展を遂げ、徳川家の権威と防御の象徴としての役割を担うことになります。こうした秀吉の治水工事と、宿場町の整備には豊臣と徳川それぞれの思惑が反映されており、淀は両者の歴史的な権力構造の一部としても重要な意味を持つ場所となっていきました。
■ 徳川家康の「権威の象徴」としての宿場と城の役割
淀城とその背景
淀城は、徳川家康が淀の地に築いた城であり、その設置には明確な政治的・軍事的意図が込められていました。徳川幕府が日本各地に築いた城には、ただの防衛拠点としてだけでなく、権威を示す象徴としての役割も持たせていましたが、淀城もその一つでした。この城は西からの勢力が京都や江戸に向かって進軍してくる場合の「防波堤」として機能することを目的に築かれたとされ、戦略的な重要性が非常に高かったのです。
淀城が存在することで、京都やその先の江戸へと至る経路をしっかりと監視し、統制する役割を果たしていました。また、淀は淀川をはじめとする河川が集まる地点であり、水運を使って物資や人が集まりやすい場所でした。宿場町としての淀は、旅人が休息するための拠点であっただけでなく、物流や情報の結節点でもありました。こうした地理的要因と相まって、淀に城を築くことは、幕府にとって西からの脅威に備えるための防衛線を構築する意味合いがあったのです。
家康が淀に城を築いたことにより、単なる宿場町に過ぎなかった淀は、徳川の統治を象徴する「権威の象徴」として機能するようになりました。宿場町自体は、あくまで補完的な役割を果たしており、淀城があることでその機能が強化され、交通の要衝としての位置付けがより強固なものとなりました。淀城が存在することで、幕府は京都やその先の西国からの影響をコントロールできる立場にあり、徳川家の権力を示すシンボルとしても機能していたのです。
東海道分間延絵図に見る徳川の思惑
「東海道分間延絵図」は、徳川幕府が東海道沿いの宿場町や名所を詳細に描いた絵図であり、これは幕府が自らの権威を可視化し、全国に示すためのプロパガンダの一環としても用いられていました。東海道分間延絵図に描かれる宿場町や城は、単なる交通や防衛の拠点としてだけでなく、幕府が全国の統治に対する影響力を強く示すものでもありました。こうした中で、淀は東海道五十七次の五十五番目の宿場町であると同時に、京都から西に出る「関門」としての重要な役割を果たしていました。
淀が京都から西に出る関門として機能していたことは、徳川にとって極めて重要でした。西日本から京都に至るこの経路をしっかりと掌握することで、幕府は中央の権威を守り、外敵や反乱勢力が京都や江戸に到達することを防ぐための策を講じていたのです。淀城を中心に配置された淀の宿場町は、まさにそのための「抑え」として位置づけられており、幕府が全国に対する統治権を視覚的かつ実質的に示すための拠点でもありました。
このように、淀城とその周辺の宿場町は、単なる旅人や物流のための施設ではなく、幕府の権力を象徴し、徳川がいかにして全国の秩序を守ろうとしていたかを示すものでした。東海道沿いにこうした象徴的な拠点を配置することで、幕府は自らの支配力と権威を強く印象付け、各地の勢力がその影響力を無視できないようにしていたのです。淀は、徳川家がその勢力を全国に示すために必要不可欠な場所であり、淀城を中心とした宿場町の機能が、徳川家の一貫した統治政策の一部であったことがわかります。
■ 京都・石清水八幡宮を訪れて歴史を探る
石清水八幡宮の歴史と徳川家の関わり
石清水八幡宮は平安時代に創建された、由緒ある神社で、戦乱の多い時代を通して武士たちに深く信仰されてきました。八幡神は武運を司る神として崇められ、源頼朝や足利尊氏など、数多くの武将がこの地に祈りを捧げました。鎌倉幕府や室町幕府の時代を経て、戦国時代には織田信長や豊臣秀吉もこの神社を重要視しましたが、江戸時代には徳川家もまたこの地を篤く信仰しました。
現在の石清水八幡宮の本社は、江戸幕府三代将軍の徳川家光によって寛永11年(1634年)に再建されたものです。家光は、徳川家が国家の安泰を祈願する場所としてこの神社を再建し、幕府の権威を京都周辺にも示そうとしたのです。この再建は、単に信仰の場を修復するだけでなく、徳川家が京都やその周辺地域をいかに重要視していたかを示すものでもあります。徳川家がこの神社に深く関わりを持ったことにより、石清水八幡宮は幕府の権威の象徴ともなりました。
地形と宗教的要素の融合:京都を守る「関門」
石清水八幡宮は、男山(おとこやま)と呼ばれる山の上に鎮座しており、この山は南北に広がる二つの山並みに挟まれています。このため、神社のある場所は、ちょうど京都に向かう南側の「関門」のような位置にあり、京都への進入路を見下ろす形で配置されています。この「関門」という地形的特徴は、京都を防御する要所としての価値を持ち、宗教的な意味だけでなく、軍事的な価値も兼ね備えていました。
徳川家は、この石清水八幡宮を単なる宗教施設としてではなく、戦略的な要地としても評価していたのです。この地形的な位置関係を利用して、京都へ向かう道を見守り、外敵や反乱から都を守るための象徴としてこの地に関心を寄せました。江戸幕府が京都を重視し、同時に西からの脅威を警戒していたことから、京都に入る前の「関門」として石清水八幡宮が役立つことを意識していたと考えられます。
この関門の前には、徳川家康が淀城を築きました。淀城と石清水八幡宮の位置関係は、地形的にも象徴的にも京都防衛の要となっていました。京都に進入するには、石清水八幡宮のそばを通過せざるを得ず、もしも西からの勢力が京都に向かう場合、この地を通る必要がありました。この地形を利用して、徳川幕府は京都を守るための防衛ラインを築き、さらに淀城と連携することで、京都と江戸の安全を確保しようとしました。
また、宗教的な要素としても、石清水八幡宮が京都を守る守護神的な存在とされてきた歴史もありました。八幡神は、武士にとって守護神であり、戦の神として崇敬されてきたため、戦国武将や徳川家も厚く信仰したのです。このように、石清水八幡宮は京都の守護を象徴する存在であると同時に、幕府の戦略的な要地でもありました。徳川幕府は、淀城と石清水八幡宮を組み合わせることで、宗教と軍事的な意味を合わせ持った「二重の守護」として京都を防衛し、江戸へのアクセスラインを維持しようとしたのです。
石清水八幡宮は、京都と江戸をつなぐ重要な地であり、またその信仰と地形が融合して「関門」としての役割を果たしていたことから、徳川幕府にとっても非常に重要な存在となっていました。この神社を中心とした地形と、淀城を含めた防衛線は、徳川家が京都と江戸を防御するための象徴的な配置であり、単なる宗教施設を超えた、戦略的な拠点としての役割を担っていたのです。
■ 西からの防波堤としての淀城と徳川の思惑
関門の目の前にある淀城の戦略的価値
淀城が建てられた場所は、石清水八幡宮の「関門」のすぐ目の前に位置しています。この配置は、徳川幕府にとって非常に重要な意味を持っていました。淀城は、西から京都に入る際に必ず通る要所にあり、まさに「防波堤」として機能していました。特に、京都は日本の歴史と文化の中心であり、権力の象徴としての意味も大きかったため、幕府にとって西からの脅威を防ぐことは大きな課題でした。淀城はこの脅威を抑止し、京都への侵入を防ぐための「最後の砦」としての役割を担っていたのです。
この戦略的な場所に城を置くことで、徳川家は西からの勢力、特に西日本の有力な大名や外敵が京都や江戸に影響を及ぼすことを防ぐことができました。淀城が「防波堤」として機能することにより、幕府は京都周辺の治安を確保し、江戸への安全な経路を守る布石としても働かせていました。このような位置に城を築くことで、万が一、西からの軍勢が進軍してきた場合には、淀城が最初の防御ラインとして立ちはだかり、京都と江戸への侵攻を抑えることが可能だったのです。
さらに、淀城と石清水八幡宮が組み合わさることで、地形的にも戦略的にも京都を守る「二重の防衛ライン」が形成されました。この「関門」としての立地条件を巧みに活かすことで、徳川家は自らの支配体制を守り、反乱や脅威から京都を守り抜くための強固な防御体制を築き上げたと言えるでしょう。
江戸と京都の守りを強化した徳川家の思惑
淀城は、ただの城ではなく、徳川家がその権威と支配力を見せつけるための象徴的な存在でもありました。京都は、江戸幕府にとって歴史的、文化的に非常に重要な都市であり、権威の象徴としても欠かせない場所でした。この京都を守るための拠点として淀城が存在することは、幕府の支配をさらに強固にするための施策の一環でもありました。
淀城は、単なる軍事拠点としてだけでなく、幕府が西日本に対する影響力を示すための要所としての役割も果たしていました。京都は多くの貴族や宗教的な権威が集まる地であり、将軍の権力を日本全国に示すためにも重要な拠点でした。この京都を守ることで、徳川幕府は自らの支配を内外に誇示し、幕府に逆らう勢力が現れることを防ごうとしたのです。
また、淀城の存在によって、徳川幕府は西日本の大名たちに対しても強い圧力をかけることができました。西日本の有力大名が幕府に対して反乱を企てるような事態が生じた場合、淀城がその動きを監視し、制圧するための拠点として機能することを想定していました。淀城の配置によって、幕府は西日本の情勢を安定させ、幕府に対する忠誠心を促す狙いもあったのです。
さらに、淀城を拠点とすることで、江戸への安全な通路も確保され、東海道沿いに配置された他の拠点と連携して、幕府の支配力を一層強固なものとしました。これにより、江戸から京都、そしてさらに西日本への影響力を盤石にし、日本全体を支配下に置くための布石として淀城が機能したのです。
このように、淀城は単に防衛のための城というだけでなく、徳川家が日本全土を支配する上での重要な拠点であり、京都と江戸を繋ぐ象徴的な防衛ラインとしての役割も持っていました。徳川幕府が長きにわたり支配体制を維持できた背景には、このように戦略的な拠点配置や、各地に権威の象徴を置くことで、各地の大名たちに幕府の影響力を実感させたことが大きく関係しているのです。淀城の存在が、徳川家による安定した統治と権威の保持にどれほど大きな役割を果たしていたかが伺えます。
まとめ
京都・淀から石清水八幡宮まで、タモリさんと巡る東海道“五十七次”の旅は、歴史的な地形や徳川家の戦略的な思惑に焦点を当てていました。競馬場に残る巨椋池の名残や、淀城と石清水八幡宮の関門としての役割を通じて、徳川がいかに京都と江戸の守りを意識していたかが伺えます。次回の放送では、さらに深い歴史とロマンが待っていることでしょう。
コメント・質問コーナー
この記事をご覧いただきありがとうございました!淀や石清水八幡宮に関するご質問や、歴史についてのご意見がありましたら、ぜひコメントで教えてください。読者の皆さんの視点やご感想をお待ちしております!
コメント欄
番組を見て感じたことや、淀宿や石清水八幡宮についての感想、また実際に訪れたことのある方はぜひコメントで共有してください。歴史の知識を持つ方からの洞察や、現地を訪問した方の体験談もお待ちしています!
コメント