東海道“五十七次”の旅~徳川の思惑と京都・伏見の歴史に迫る
NHK総合で放送される「ブラタモリ」2024年11月2日の回では、東海道“五十七次”の旅として、京都・三条大橋から伏見へのルートが紹介されました。今回は、徳川家の歴史的な意図が隠された「五十七次」のルートの謎をタモリさんが紐解きます。見どころ満載の今回の放送をもとに、番組内容を徹底解説します。
【ブラタモリ第二夜】東海道“五十七次”の旅「京都競馬場と石清水八幡宮の謎」|2024年11月3日
いよいよ今夜19時半ブラタモリの復活です!😎
NHK京都放送局では、小さいスペースですがブラタモリ展を開催中。
第1夜の「京都・三条大橋から伏見へ」の写真パネルです!😎 pic.twitter.com/c1QYp1oUCC— ブラタモリ (@buratamori2018) November 2, 2024
三条大橋の歴史と復元
江戸時代の名橋・三条大橋と歌川広重の「東海道五十三次」
京都の三条大橋は、京都の歴史の中心を成す重要なスポットであり、江戸時代には東海道五十三次の旅の終点としても知られていました。この名橋は、京都の象徴的な場所のひとつであり、旅人にとっての「到達地点」として、当時の人々の憧れと目標となっていた場所です。2024年1月には、約50年ぶりに大規模な改修が行われ、歴史的価値を保ちながらも、現代に相応しい姿にリニューアルされました。特に、橋に取り付けられた擬宝珠(ぎぼし)は、1590年のものがそのまま使用されており、長い歴史を受け継いできた重要な文化財としての価値が際立っています。
歌川広重と「東海道五十三次 京師 三条大橋」
三条大橋は、その存在だけでなく、江戸時代の浮世絵師である歌川広重の「東海道五十三次 京師 三条大橋」という作品によっても有名です。この浮世絵には、当時の賑やかな街並みや行き交う人々の様子が生き生きと描かれており、橋そのものが多くの旅人の視点から見た京都のシンボルであることが伝わります。絵に描かれた橋脚は木製で表現されており、広重はその風情ある姿を見事に捉えましたが、実際には豊臣秀吉の時代に石柱に変わっていたとされています。
豊臣秀吉と石柱橋への改修
三条大橋は、元々は木製の橋脚を持っていましたが、豊臣秀吉によって石柱橋へと改修されました。これは、頻繁な洪水や風雨による損傷を防ぐためのもので、石材の使用により耐久性が大幅に向上し、後世まで残る堅牢な橋となりました。秀吉が石材を使用して改修したことにより、三条大橋は単なる通行のための橋以上の、時代を超えたシンボルとなったのです。
歴史と現代が交差する名橋
現代においても、三条大橋は多くの観光客や地元の人々が行き交う重要な場所です。その擬宝珠に触れ、橋の欄干に手をかけることで、訪れる人々は約430年もの歴史を体感することができます。また、橋の改修によって新しい装いを纏いながらも、歴史的な構造や意匠はしっかりと保存されており、時代を超えて人々に語りかける存在として今も息づいています。
三条大橋は、単に京都のランドマークであるだけでなく、豊臣から徳川、そして現代へと日本の歴史を辿る旅の象徴的な場所でもあるのです。
東海道“五十七次”と徳川の隠された意図
徳川家が設定した分岐点の意図
「ブラタモリ」では、東海道のルートが単なる旅路だけでなく、江戸幕府の政治的な策略や意図によって形成されていたことが明かされました。タモリさんたちは、東海道五十三次と五十七次のルートが分かれる分岐点に立ち、「みきハ京ミち」「ひだり ふしミ」と刻まれた道標を確認しました。この分岐点は、江戸時代において非常に重要な意味を持っていました。道標が指し示す通り、京都を経由するルートと伏見を通るルートが存在し、徳川幕府は後者を選択して五十七次のルートを整備しました。この決定には、徳川家の巧妙な政治的意図が反映されているのです。
京都を避ける「五十七次」ルートの背景
五十三次のルートであれば、京都を経由することになりますが、五十七次のルートでは、京都から少し離れた伏見を通る構造になっています。徳川幕府は、なぜ京都を避けたのでしょうか?この背景には、徳川家の政治的な思惑が潜んでいました。当時、京都には朝廷があり、天皇や貴族が暮らす都市としての権威が強かったのです。徳川家は、日本全土の統制を強固に保つため、地方の大名たちが朝廷と接触する機会を極力減らす方針を取っていました。もしも五十三次のルートに沿って京都を通過させると、大名行列が京都に寄ることになり、自然と朝廷との接触が増えてしまうリスクがありました。
大名と朝廷の接触を防ぐための統制
五十七次のルート設定は、大名が江戸とその領国を往来する際、朝廷と交わることを極力防ぐための統制策のひとつでした。大名たちが参勤交代で東海道を通る際、五十七次のルートを選ばせることで、伏見を経由して大阪に向かうようにさせ、京都に立ち寄らずに済む構造を作り上げたのです。こうした徳川幕府の配慮は、当時の統治体制を揺るぎないものにするためのものであり、武家と朝廷の距離を保つための巧妙な戦略といえるでしょう。
分岐点と幕府の統制力の象徴
この分岐点に設けられた「みきハ京ミち」「ひだり ふしミ」の道標は、単なる案内表示ではなく、幕府が意図的に設定した「統治のための道標」でもあったのです。この道標が当時の旅人や大名行列に与えた影響は大きく、幕府が支配体制を維持しつつ、大名たちの動きをコントロールする仕組みの一環であったことがわかります。江戸幕府は、こうした巧妙なルート設定を通して、天皇を擁する朝廷の権威と地方大名との関係を絶妙にコントロールし、江戸の統治力を強化していたのです。
五十七次のルートは、単に距離を調整したり、利便性を図ったものではなく、幕府の緻密な統治方針が色濃く反映された結果であり、その分岐点は幕府の強力な政治的影響力と統制力を象徴する場所といえるでしょう。
江戸時代の人気お土産「大津絵」
大津絵の由来と現代の職人
江戸時代、東海道を行き交う多くの旅人たちに愛された土産物のひとつが「大津絵」でした。大津絵は、東海道の宿場町である大津宿(現在の滋賀県大津市)で生まれた民衆絵画で、手頃な価格で販売されていたため、庶民の間でも広く親しまれていました。特徴的な絵柄と素朴なタッチで描かれる大津絵は、江戸時代の庶民文化と深く結びついており、宗教的な意味合いや縁起物としての要素を持ち、多くの旅人が旅の安全や厄除けを願って購入していきました。
「鬼の寒念仏」と庶民文化への広がり
大津絵の代表作として知られる「鬼の寒念仏」は、特に魔除けやお守りとして人気がありました。この絵には、寒念仏を唱える鬼の姿が描かれており、鬼が仏教の教えに従うというユーモアや皮肉を込めた意味が含まれています。「鬼の寒念仏」は悪霊除けや子どもの夜泣き止めとしても使われ、当時の人々にとって大切なお守り的な役割を果たしていました。こうした宗教的な背景とともに、庶民の生活に密着したアートとして愛され続けたのです。
大量生産の工夫と型紙の使用
大津絵が広く普及した要因のひとつには、大量生産が可能であったことが挙げられます。江戸時代には、手描きで一枚一枚を描くのではなく、型紙を使うことで絵柄を簡単に再現し、大量に生産できるよう工夫が施されていました。型紙の使用により、絵師は短時間で多くの大津絵を作成することができ、これによって価格も抑えられ、一般庶民でも手に取りやすいものとなったのです。こうした大量生産の手法は、大津絵が「お土産」として多くの旅人に持ち帰られることを可能にしました。
また、大津絵はもともと簡素な線と鮮やかな色使いで仕上げられており、誰でも楽しめるわかりやすいスタイルが特徴です。特に大津宿周辺の道中で簡単に入手できたことも、人気に拍車をかけました。
現代に受け継がれる大津絵の技法
タモリさんが訪れた現代の大津絵師・高橋松山さんは、こうした伝統的な技法を受け継ぎ、現代でも「鬼の寒念仏」をはじめとする大津絵の作品を描き続けています。大津絵は、その独特のスタイルと歴史的背景から、今もなお日本の伝統工芸として評価されています。高橋松山さんの手により、当時の庶民が愛した大津絵は再現され、現代の私たちにもその魅力が伝わります。タモリさんもこの訪問で大津絵に挑戦し、自らの手で大津絵の世界を体感することができました。
大津絵は、庶民に親しまれた文化の象徴であり、簡素でありながら奥深い歴史を持つ日本の伝統工芸として、今もなお多くの人々を魅了し続けています。
伏見宿の繁栄と徳川家康の影響
伏見宿の発展と十石船の旅
伏見は、江戸時代において日本最大級の宿場町として大いに栄え、その人口は2万人を超える規模にまで拡大しました。伏見の発展は、もともと豊臣秀吉によって築かれた伏見城とその城下町が基盤となっています。豊臣秀吉は伏見を重要な拠点と位置付け、交通や物流の要所としての伏見の価値を高めました。伏見城は、交通の要衝であるとともに政治的にも要所であり、城下町には商業施設や宿屋が多く集まり、人々の往来が活発化していました。こうした基盤があったからこそ、伏見は後に徳川家康によって宿場町として整備され、五十七次の重要な拠点へと発展を遂げたのです。
徳川家康による宿場町としての整備
徳川家康が幕府を開いた後、江戸から京都、大阪へと続く交通網の整備が進められ、伏見は宿場町としての役割をさらに強化されました。江戸時代の伏見は、東海道五十七次において最大規模の宿場町として成長し、江戸からの物流や大名行列の拠点となりました。宿屋や商店が立ち並び、参勤交代の大名や旅人、商人たちで常に賑わっていたため、伏見は経済的にも大いに繁栄しました。伏見はまた、酒造業が盛んな土地でもあり、地元の酒が旅人や商人たちに喜ばれる名物となり、さらに人を引き寄せる魅力を持っていました。
十石船と伏見の物流
伏見の繁栄を支えたもう一つの重要な要素が「十石船」と呼ばれる船便です。伏見は、水運を利用した物流の拠点でもあり、淀川を使って大阪方面とつながっていました。十石船は、淀川を行き来し、伏見と大阪を結ぶ輸送手段として活躍しました。「十石船」という名前は、一度に米十石(約1.5トン)を運ぶことができるということに由来しており、この船便を利用して、米や木材、酒などが伏見を拠点に広範囲に運ばれました。これにより伏見は、単なる宿場町以上の「物流のハブ」としても機能していたのです。
観光船「十石船」による伏見の歴史探訪
今回、タモリさんたちは観光船「十石船」に乗り、伏見の歴史や当時の交通手段について体感しました。現代では観光船として復活した十石船に乗ることで、江戸時代に伏見がいかに物流や交通の中心地であったかを実感することができます。船上から見える川沿いの風景や、船が運んできた物資に思いを馳せながら、当時の人々が利用した交通インフラの重要性を感じることができるのです。
十石船は、江戸時代の伏見の発展を象徴するものであり、現代の観光客にも伏見の歴史と文化を伝える重要な役割を担っています。船旅を通じて、当時の賑やかな宿場町の雰囲気や、往来する人々の活気が目に浮かぶようです。
徳川家康が伏見に遺した痕跡
御香宮神社と徳川の家紋
江戸時代、伏見は徳川家にとって非常に重要な拠点でした。その理由のひとつに、徳川家康がここで長い期間滞在し、直接統治や政治の影響力を強めていったことが挙げられます。その象徴のひとつが「御香宮神社」です。タモリさんたちが訪れた御香宮神社には、徳川家の深い影響を示す証拠が今でも残されています。
御香宮神社の門には、徳川家の家紋である「三つ葉葵」が刻まれており、これは家康の息子である徳川頼房が寄進したものとされています。頼房は徳川家康の十男であり、彼が伏見のこの地に寄進を行ったことは、家康が伏見に対して並々ならぬ関心と影響力を持っていたことを示しています。徳川家が御香宮神社に自身の家紋を刻むことを許可したのは、家康が伏見の町を自らの支配下に組み込み、幕府の影響力をより強固にしようとする意図があったからです。
徳川家と御香宮神社の関係が象徴するもの
御香宮神社は、その歴史の中で徳川家康やその子孫たちと深い関係を持ってきました。家康は豊臣秀吉の築いた伏見城を引き継ぎ、さらには自身の手で伏見宿を整備するなど、伏見の町を政治的に重要視していました。御香宮神社に徳川の家紋を刻むことで、家康は伏見が幕府の影響下にあることを周囲に示し、ここでの統治権を象徴的に確立していたのです。
また、御香宮神社には「御香水」と呼ばれる湧き水があり、これは病気平癒や無病息災のご利益があるとされています。江戸時代には御香水を汲むために多くの人々が参拝に訪れており、伏見の町を支える重要な役割を果たしました。御香水は、家康が伏見で統治に力を注いだ背景と相まって、伏見が単なる宿場町以上の「徳川家の庇護を受けた特別な場所」であることを示していたのです。
伏見における徳川幕府の政治的影響力
伏見は、江戸時代を通じて単なる宿場町ではなく、京都に近接しながらも徳川の支配の力が及ぶ重要な拠点でした。御香宮神社の徳川の家紋は、家康がこの地域に長期間滞在し、伏見を幕府の重要拠点として育成していたことの象徴です。伏見宿の整備と発展、そして政治的なコントロールが伏見に対する幕府の意図を色濃く示しています。徳川幕府は、御香宮神社のような場所を通じて、伏見に住む人々や訪れる者に対して幕府の存在感を示し続けていました。
御香宮神社と現代への継承
現在、御香宮神社は当時の姿を残し、訪れる人々にその歴史を伝えています。徳川家康の時代に遡る歴史的な意図が感じられる場所として、観光客や歴史愛好家に人気です。門に刻まれた徳川の家紋「三つ葉葵」は、今もなお徳川家の栄光を伝える重要なシンボルであり、御香宮神社が持つ重みを物語っています。御香宮神社に立つことで、訪れる人々は、伏見がいかに徳川家康によって整備され、幕府の影響下で繁栄を遂げたか、その時代の面影に触れることができるのです。
全国に広がった東海道グルメ「練り羊羹」
伏見から始まった練り羊羹の広がり
江戸時代、伏見は東海道五十七次の主要な宿場町として、商人や旅人たちが行き交う賑わいを見せていました。この伏見宿で、特に人気を博した名物が「練り羊羹」です。練り羊羹は、食べごたえがありながらも、持ち運びに便利で長持ちするため、旅の供として非常に重宝されていました。羊羹は乾燥に強く、湿気や暑さにもある程度耐えられることから、遠方の宿場町や家族への土産物として理想的だったのです。
練り羊羹の魅力と旅人の心をつかんだ理由
練り羊羹の人気の秘密は、その独特な食感と味わいにあります。しっとりとした口当たりと甘さが絶妙であり、甘味の少ない食生活が一般的だった当時の人々にとって、特別なご馳走でもありました。羊羹の主な材料である小豆や砂糖は、江戸時代には貴重であり、庶民には手が届きにくいものでしたが、旅の途中で味わう甘味は格別なものでした。
また、練り羊羹は包装も工夫されており、持ち運びやすい形状に仕上げられていたため、長旅をする人々にとっても携帯しやすいものでした。伏見宿を訪れる旅人たちは、練り羊羹を手にして家族や友人への土産物として持ち帰り、これが全国に練り羊羹が広がるきっかけとなりました。
東海道を通じて全国に広がった練り羊羹文化
東海道五十七次を通して、伏見宿の練り羊羹は全国へと広がり、旅人たちによって各地へと伝えられました。特に、江戸や大阪といった大都市に戻った旅人たちが伏見の練り羊羹を土産として持ち帰ったことで、庶民の間で羊羹の文化が定着していきました。江戸時代を経て、羊羹は日本全国で作られるようになり、それぞれの土地で独自の風味や形状が発展しました。
現代では、地域ごとに異なる材料や製法を用いた「ご当地羊羹」が生まれ、伏見で始まった練り羊羹の文化が日本の各地でアレンジされています。例えば、小豆だけでなく抹茶や栗を加えたもの、濃いめの甘さや優しい風味のものなど、各地で特色ある練り羊羹が作られるようになりました。これにより、羊羹は日本を代表する和菓子のひとつとなり、現在でも多くの人々に親しまれています。
現代に続く練り羊羹の文化とその魅力
現在でも、日本全国の和菓子店では様々な練り羊羹が販売されており、伏見から始まった羊羹の文化がしっかりと受け継がれています。特にお茶文化と深く結びついており、茶道や日常の茶席で羊羹は欠かせない存在です。伏見の練り羊羹がもたらした「持ち運びやすく、保存がきき、甘さで疲れを癒す」というメリットは、現代においてもその魅力として生き続けており、日本各地の旅行やお土産選びにおいても、練り羊羹は定番の一品となっています。
伏見から全国へと広がった練り羊羹は、当時の旅人だけでなく、現代の私たちにとっても心温まる味わいを届ける日本の伝統菓子のひとつとして、多くの人々に親しまれ続けています。
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ブラタモリの東海道“五十七次”の旅について、さらに知りたいことや質問がございましたら、ぜひコメントをお寄せください。また、皆さんの感じた東海道の歴史や思い出などもシェアいただけると嬉しいです!
まとめ
今回の「ブラタモリ」では、東海道五十七次の歴史や徳川の意図、そして伏見宿の発展について詳しく紹介されました。三条大橋や伏見宿、そして現代にも受け継がれる大津絵など、江戸時代の文化や人々の暮らしが見えてきました。放送後、詳しい内容が分かり次第、最新の情報を更新します。
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