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【ブラタモリ】東海道“五十七次”の旅・第三夜!枚方宿と守口宿を巡り大阪にゴール|2024年11月4日放送

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東海道“五十七次”の旅、ついにゴールの大阪・高麗橋へ!

江戸時代、徳川幕府によって整備された東海道五十三次は、江戸と京都を結ぶ主要なルートとして知られていますが、実はその延長上には「五十七次」として、大阪まで続くもう一つのルートが存在しました。今回の「ブラタモリ」では、五十六番目の宿場町・枚方(大阪)から、五十七番目の宿場町・守口を経て、大阪の中心地・高麗橋を目指すタモリさんたちが、江戸時代の街道と宿場町の面影を探して旅を続けます。

枚方宿の名残や歴史的な建造物、徳川家康と豊臣秀吉の思惑が交差するこの地域で、歴史に触れながら楽しい旅の一幕が繰り広げられました。途中、淀川沿いでのくらわんか舟の文化や、宿場町で振舞われたごんぼ汁の再現など、見どころ満載の内容を詳しくご紹介します。

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■五十六番目の宿場町・枚方宿で歴史の痕跡をたどる

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枚方宿とは?五十六番目の宿場町の意義

江戸時代の日本を代表する街道の一つである東海道は、京都を終点とする五十三次として広く知られていますが、実はそのルートは大阪まで延長されており、大阪を含む「五十七次」が存在していました。この大阪までの道中、五十六番目にあたる宿場町が現在の大阪府枚方市に位置する「枚方宿」です。

江戸時代において、枚方宿は単なる宿場町ではなく、淀川に面した立地を活かした交通の要所として、旅人や物資が集まる活気ある場所でした。枚方宿は、京阪神エリアへのアクセスにも優れ、さらに水運が盛んな淀川に接していたため、人や物の往来が頻繁に行われました。これにより、商業や物流も活発化し、枚方宿は経済的に繁栄したのです。

月一開催「五六市」と歴史の名残り

枚方宿の歴史は現在も街並みや文化に色濃く残っており、その象徴として、毎月第一日曜日に開かれる「五六市」があります。この名称は、枚方宿が五十六番目の宿場町であったことに由来し、地元の特産品や工芸品、飲食物が並ぶ賑やかな市として地域の住民や観光客に親しまれています。

五六市では、地元の農産物や手作りの雑貨、クラフト作品が並ぶだけでなく、江戸時代の宿場町の名残を感じるイベントや展示も行われることがあり、枚方宿の歴史を肌で感じられる場となっています。この市は、宿場町として栄えた当時の賑わいを現代に伝え、地元の人々にとっても重要な文化的イベントとなっています。

さらに、枚方宿のシンボル的な存在である「枚方橋」の石柱も、当時の面影を今に伝える遺構の一つです。旅人たちがこの橋を渡り、枚方宿で休息をとった様子が目に浮かぶような景観は、歴史の記憶を引き継ぐランドマークとして多くの人々を引き寄せています。

江戸時代から残る建物「鍵屋」

枚方宿の歴史的価値を象徴する建物の一つに、「鍵屋」があります。この「鍵屋」は江戸時代から続く宿屋であり、現在も当時の姿をほぼそのままに保存され、観光名所として一般公開されています。

鍵屋の建物には、江戸時代の建築技術が随所に取り入れられており、その特徴的な戸の構造は特に注目されます。戸は上下に開閉する仕組みで、滑車とおもりを利用して軽い力で開閉できるよう工夫されているため、当時の利用者たちにとっても使いやすい設計が施されていました。この上下開閉の仕組みは現代でもそのまま残っており、江戸時代の人々の知恵と工夫を直接感じることができる貴重な構造です。

また、この「鍵屋」には宿場町ならではの「船宿」としての役割もありました。淀川に面した枚方宿において、鍵屋は川を行き交う旅人や商人たちが宿泊しやすいように考えられており、特に水運を利用して移動してきた人々にとって便利な拠点でした。さらに、鍵屋は宿場町としての役割だけでなく、地域の情報交換や交流の場としても機能し、商人たちが集う場所でもありました。

現在、鍵屋は「鍵屋資料館」として、当時の生活用具や宿場町の様子を伝える展示が行われており、当時の歴史や文化に触れることができます。また、鍵屋の周囲には、当時の雰囲気を感じさせる街並みが残され、現代の観光客にとっても江戸時代の風情を体験できるスポットとなっています。

鍵屋の訪問者は、江戸時代の宿場町での生活を疑似体験しながら、その構造や文化的背景について学ぶことができ、まるで時を遡ったかのような歴史探索を楽しむことができるのです。

■淀川と並走する街道が生んだ宿場の繁栄と衰退

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枚方宿と淀川の関係

江戸時代、枚方宿は大阪と京都を結ぶ重要な交通の要所として栄えていました。その一因には、宿場町のすぐそばを流れる淀川の存在がありました。淀川は伏見から大阪まで約40kmの距離を結ぶ水路であり、当時の旅人や商人にとって非常に便利な交通手段となっていました。水路による移動は街道を歩くよりも短時間で済み、より多くの物資を一度に運ぶことができたため、人々は街道を歩くよりも舟を利用する傾向が強まりました。

水運の発展により、淀川沿いの枚方宿も商業拠点として賑わいを見せましたが、同時にその発展は宿場町の衰退の原因ともなりました。水路の便利さが街道の利用を減少させ、宿場に立ち寄る人が減ってしまったため、次第に枚方宿はかつての賑わいを失っていったのです。多くの旅人が枚方宿に滞在せずに舟で移動を続けたことは、宿場の財政にも大きな影響を与えました。

宿場町の新たな試み「くらわんか舟」とは

水運による旅人の減少が続く中、枚方宿では客足を取り戻すためのユニークな取り組みが行われました。それが「くらわんか舟」と呼ばれる船での飲食物の販売です。「くらわんか」とは関西弁で「食べないか?」という意味で、このくらわんか舟では、川を行き交う旅人や通行人に向けて食べ物や酒を売り込みました。

舟に乗った旅人にとって、くらわんか舟は非常に便利であり、淀川を移動する間に食事を取ることができるため、自然と人気が出ました。特に、ここで提供される料理や酒は「淀川名物」として広まり、多くの旅人に親しまれました。くらわんか舟は宿場町の工夫を象徴するものであり、商人や旅人を川沿いに引き寄せるための戦略的なアイデアでした。

再現された「ごんぼ汁」と当時の料理

今回の「ブラタモリ」では、くらわんか舟で提供されていた「ごんぼ汁」という料理が再現され、タモリさんたちがその味を体験しました。この「ごんぼ汁」は、ごぼう、油揚げ、鶏肉、おからなど、身近で手に入りやすい食材を使った素朴な料理で、当時の旅人や地元の人々にとって栄養価の高い食事として親しまれていました。

ごぼうの香りと、油揚げの旨味がスープに染み渡り、鶏肉の出汁が深いコクを引き出しています。また、おからが加わることで、独特のとろみがスープに生まれ、ほっと温まる味わいになっています。このごんぼ汁は、腹持ちがよく、旅の途中で立ち寄る旅人にとってもありがたい一品でした。当時の舟旅は現在のような快適なものではなく、長時間揺られながら移動することが多かったため、このような温かい汁物が提供されることは、大きな癒しだったに違いありません。

くらわんか舟の持つ文化的意義と影響

くらわんか舟は、単なる飲食の提供にとどまらず、旅人同士や商人たちが交流する場としての役割も果たしました。舟上で偶然居合わせた旅人たちが食事を共にし、情報交換をすることで、淀川沿いに小さなコミュニティが形成されていたのです。こうした交流は、単に物資や人の移動だけでなく、文化や情報の流れにも影響を与え、当時の人々にとって重要な役割を果たしました。

現代では想像しにくいかもしれませんが、くらわんか舟はまさに「動く宿場町」として機能していたのです。川を移動しながら食事を楽しみ、仲間と交流を深めることができるこの舟は、旅の疲れを癒すだけでなく、旅人の思い出の一部としても残ったことでしょう。

■五十七番目の宿場町・守口宿と徳川家康の思惑

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守口宿の役割と堤防の歴史

守口宿は、大阪から京都へ向かう東海道の延長として、徳川家康の意向で整備された五十七番目の宿場町です。この宿場町は、豊臣秀吉が築いた堤防の上に設けられており、堤防は淀川の氾濫から町を守るためだけでなく、交通路としても機能する重要なインフラとなっていました。この堤防は全長約10kmにも及び、洪水防止を目的に作られたものでしたが、地形や利便性に目をつけた家康は、この堤防を東海道のルートに組み込み、大阪までの延伸を図りました。

家康が守口宿の整備に力を入れた背景には、経済的な思惑も大きく絡んでいました。当時、大阪は商業都市として発展しており、大坂城周辺には多くの商人が集まり、豊臣家の庇護のもと、栄えていました。家康は、この経済的な中心地を抑えるため、江戸から大阪に至るまでの交通網を支配下に置き、大阪との経済的なつながりを強化しようとしました。特に、堤防上に設けられた宿場町・守口宿は、大阪との経済流通を効率化するための戦略的な拠点とされていました。

宿場町の機能を超えた守口宿の多様な役割

守口宿は、大阪の中心地からのアクセスの良さもあり、単なる宿場町としてだけではなく、商業や物流の拠点としても大きな役割を果たしていました。堤防の上に位置するため、洪水の心配が少なく、また淀川水運との結びつきが強いため、人と物資が集まる要所となりました。このようにして、守口宿は街道沿いの宿場町としての役割にとどまらず、大阪の物流の要衝として商人たちの活動を支える基盤となったのです。

さらに、守口宿では、多くの商人が集まり、物資の売買や交易が盛んに行われました。ここでは、京都や江戸から運ばれた品物が大阪に流通し、逆に大阪から江戸へ送られる商品もここで集積されることが多く、守口宿は東西の物流拠点としても大変重要な役割を果たしていました。

守口宿に宿泊する旅人だけでなく、大阪に拠点を置く商人たちもこの宿場を頻繁に利用していたとされ、現地の市場も栄えていました。宿場町を囲むようにして、小さな商店や茶屋、食事処が並び、旅人だけでなく、大阪から日帰りで訪れる人々にとっても利便性の高いエリアとして発展しました。

徳川家康の思惑と大阪への経済的な支配

徳川家康が東海道を大阪まで延長した背景には、大阪という商業都市を経済的に支配し、徳川幕府の影響力を確立する狙いがありました。特に、淀川沿いに構築された守口宿を中心とする宿場町群を利用することで、大阪と京都、江戸を効率的に結ぶ物流網を作り上げ、幕府の支配を強化しました。この経済的支配の一環として、家康は江戸からの商業活動を盛んにし、豊臣家の影響下にある大阪との経済的な繋がりを深めると同時に、江戸時代における国家の交通網の整備を進めたのです。

守口宿はその象徴ともいえる場所で、堤防の上という地理的特性と大阪の近さから、徳川の経済戦略において重要な位置を占めていました。現在も守口宿には当時の堤防の跡や街並みが一部残されており、歴史的なエリアとして観光客にも親しまれています。徳川家康の経済戦略が色濃く反映されたこの宿場町は、今もなお江戸時代の記憶を感じさせるスポットとして残り続けているのです。

■旅のゴール!大阪の中心地・高麗橋に隠された歴史

高麗橋と大坂城の関係

  • 五十七次の最終地点として、一行が目指したのは「高麗橋」です。この橋は大坂城と大阪の町を結ぶ重要な橋で、徳川幕府にとっても大阪経済を支配するために欠かせない拠点でした。
  • 高麗橋は、東海道の大阪側の終着点であるだけでなく、大坂城から大阪中心部へ向かう道筋の一部として、物流や人の往来に大きく寄与しました。

歌川広重の浮世絵が生んだ「東海道五十三次」の有名さ

  • 東海道五十三次が広く知られるきっかけとなったのが、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」です。京都までの五十三次が描かれた浮世絵シリーズは当時から大人気で、五十七次よりも有名になりました。
  • この旅の完結にふさわしい場所として、大阪の象徴的な橋である高麗橋に到達したタモリさんたちは、五十七次の旅路を振り返り、その意義を感じていました。

読者のコメントや質問を歓迎します

今回のブラタモリの内容や、五十七次に関するご意見・ご質問があれば、ぜひコメントで教えてください!また、東海道五十三次や五十七次の旅に関心のある方、歴史好きの方の体験談などもお待ちしています。一緒に歴史の奥深さを楽しんでいきましょう!

まとめ

今回の「ブラタモリ」では、東海道五十七次のゴールとなる大阪・高麗橋を目指し、五十六番目の枚方宿、五十七番目の守口宿を巡りました。淀川沿いのくらわんか舟や宿場町の歴史、徳川と豊臣の政治的思惑が交錯するこのエリアで、当時の人々の暮らしぶりや宿場の役割が感じられる内容でした。

江戸時代の交通網や宿場町の工夫に触れながら、現代の街並みに残る歴史の痕跡を楽しめる旅。歴史を知ることで、日常の風景がまた違った姿で見えてくるかもしれません。

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