約1200人が通った「巨大学校」の探索と発見
軍艦島の学校が果たした役割
軍艦島において、学校は子どもたちにとって単なる学びの場以上の存在でした。島の大人たちは、炭鉱労働に従事し24時間体制で働いていたため、家での騒ぎが許されない環境にありました。そのため、学校は子どもたちが思い切り体を動かし、遊ぶことができる唯一の場所でした。
学校の概要:
- 正式名称:高島町立端島小学校・中学校
- 構造:当初は6階建てだったが、教室不足に対応するため鉄骨で7階を増築。
- 在籍数:小中一貫校で、最盛期には約1200人の児童・生徒が通っていました。
- 周囲環境:波が簡単に校庭まで打ち寄せ、地面には石が転がっていることも珍しくありませんでした。
学校への道中と元島民の思い出
学校を探すために進む道中では、ガイドの高比良秀信さんが自身の思い出を語りました。
高比良さんの証言:
- 「父が働いていた職場へ弁当を届けに行ったことをよく覚えています。炭鉱夫たちは忙しく、家に帰る時間もほとんどありませんでした。」
- 「中学卒業後、長崎市や隣の高島へ通学する子もいました。私もその一人です。」
学校にたどり着くまでの間にも、島全体が当時の暮らしを支える機能でぎっしりと詰まっていたことがわかります。
巨大校舎の特徴と現状
校舎の特徴:
- 窓が多い設計:太陽の光をできるだけ取り込むように、校舎の設計には工夫が施されていました。
- 金網の設置:1~3階には金網が設けられ、ボールが校庭外へ飛び出さないようになっていました。
- 渡り廊下:校舎はアパートと渡り廊下で繋がっていましたが、使われることはあまりありませんでした。
校庭の様子:
- 波が押し寄せるため、地面には石が多く、思うようにボール遊びができない状況だったといいます。
現在の姿:
- 7階部分は老朽化によって崩壊。鉄骨がむき出しの状態となっています。
- 窓や金網もほとんどが失われ、当時の面影を残す部分は少なくなっています。
元島民たちの学校の思い出
水泳部のエピソード: 溝辺武麿さんは学校での思い出についてこう語ります。
「運動場でホームランを打つと、ボールが海へ飛んでいくんです。それを冬でも水泳部員が取りに行くことがあって、1回10円でお願いされましたよ。」
このような島特有の環境下で育まれたエピソードは、軍艦島ならではの光景を思い起こさせます。
運動会と島民の交流:
- 学校の運動会は、学校単独のものだけでなく、炭鉱会社主催のものもあり、島全体のイベントとして開催されていました。
- 放課後には大人にも校庭が開放され、運動不足を補う場として使われていました。
デートスポットとしての学校:
- 3号棟(島内で最も高いアパート)はデートスポットとして知られ、恋愛中の生徒が密かに訪れる場だったといいます。
運動会の映像と元島民の感想
番組内では、当時の運動会の映像も紹介されました。子どもたちが元気に走り回る姿や、家族が集まり応援する光景は、当時の活気に満ちた島の生活を彷彿とさせました。
映像を見た元島民・石川東さんは次のように語りました。
「学校は私たちにとって唯一の自由な場所でした。運動会や放課後の時間が、島の中で一番楽しかった時間だったと思います。」
学校が島民にとって持つ意味
学校は、厳しい炭鉱の環境で暮らす島民たちにとって、コミュニティの核であり、子どもたちの成長を見守る場でした。また、大人にとっても憩いの場であり、島全体の結束を高める役割を果たしていました。
崩壊が進む中でも、学校の遺構は当時の生活を今に伝える重要な記録として残っています。その姿は、軍艦島の歴史を語り継ぐために欠かせない存在です。
パン・麺・豆腐まで!「厚生食堂」の探索とその役割
厚生食堂とは
軍艦島にあった3軒の食堂の中でも、「厚生食堂」は特に島民の生活を支える重要な役割を果たしていました。この施設は、炭鉱で働く人々の福利厚生の一環として設立され、島民の胃袋を満たすだけでなく、コミュニティの交流の場としても機能していました。
特徴的なメニュー:
- ちゃんぽん:島の人気メニューで、ボリュームたっぷりの一品として知られていました。
- 豆腐やパン、麺類:食材の供給が限られる中で、自家製の食品も提供されていたようです。
- 季節のメニュー:台風後の非常時には、特別なメニューで島民全員を支えたエピソードもあります。
木本さん(元従業員)の証言によれば、当時18歳まで働いていた頃に使用していたドンブリを番組で披露し、「台風で島全体が疲弊したときは、全員が厚生食堂に集まり、食事を共にしていました」と語りました。
厚生食堂への道中と探索
1. 地下への階段の発見 探索中、一行は地下へ続く階段を発見しました。これらは当時の「デパ地下」への出入り口で、島民たちが利用していた場所です。
階段にまつわるエピソード:
- 高級品の購入:島民はお金持ちで、電気や水道が無料だったため、余裕を持って生活していたと言います。そのため、「高級品から売れていく」というユニークな購買傾向がありました。
- アイスクリームの購入:階段近くには雑貨屋もあり、アイスクリーム(MOW、ピノ、ホームランバーなど)が人気商品だったそうです。
2. 「地獄段」と呼ばれる階段 端島神社へ続く階段も探索ルートの一つでした。この階段は、岩礁に合わせて急勾配で作られており、アパート内の階段よりもはるかに厳しい作りになっていました。そのため、島民たちから「地獄段」と呼ばれ、畏怖の対象でもあったようです。
厚生食堂の現在の姿
厚生食堂があった場所に到着した一行は、かつてのひさしのような構造物や建物跡を発見しました。
建物の状態:
- 壁や屋根はほとんど失われているものの、ひさしや土台の一部が確認されました。
- 番組では、元島民の溝辺さんにその映像を見せ、「懐かしいですね。ここでみんながちゃんぽんを食べていたのを覚えています」と語る様子が映し出されました。
軍艦島における厚生食堂の重要性
青空市場と「端島銀座」
- 厚生食堂の近くには、かつて「端島銀座」と呼ばれた青空市場がありました。この市場では日用品や食品が販売され、島民の生活を支えていました。
- 危険な通路を抜けた先にあるこのエリアは、島の生活の中心地として活気に満ちていました。
ダストシュートの役割 探索中、厚生食堂の近くで見つけた「縦に伸びる謎の出っ張り」は、ゴミを上から捨てて集めるダストシュートだと判明。元島民の証言によると、風が強いとゴミが捨てた途端に戻ってくることがあったとのこと。このユニークな設備も、島の限られたスペースを効率的に使う工夫の一つでした。
島民の生活と厚生食堂
厚生食堂は単なる食事提供の場にとどまらず、軍艦島のコミュニティ形成においても重要な役割を果たしていました。食堂での会話や交流は、過酷な炭鉱労働を乗り越えるための大切な息抜きの場でもありました。
木本さんの証言: 「食堂には年中無休で人が訪れていました。特に台風の後は全員が集まる場所で、みんなで食事を囲むことで安心感を得ていました。」
厚生食堂の記憶を未来へ
厚生食堂の跡地は、今も島民たちの思い出を語り継ぐ場所となっています。その遺構は、軍艦島での生活の豊かさや、過酷な環境で支え合ったコミュニティの温かさを伝えています。この探索を通して、軍艦島の歴史がさらに深く理解されることでしょう。
巨大建造物「65号棟」の探索とその歴史的価値
軍艦島最大の建物「65号棟」とは?
65号棟は、軍艦島で最も高い建造物で、当時は約1500人が暮らしていた巨大な社宅です。この建物は、単なる居住施設ではなく、島民の生活を包括的に支える多機能な空間として設計されていました。
特徴的な構造と機能:
- 階層構造: 居住スペースに加え、屋上には保育園、1~2階には歯医者や駐在所も完備。
- 公園: 65号棟の前には遊具を備えた公園があり、子どもたちの遊び場として機能していました。
- コミュニティの中心: 建物自体が一つの「小さな町」のような役割を果たし、島民の生活の核となっていました。
65号棟への道中と探索
65号棟への探索は、元島民でガイド役を務めた木下稔さんの思い出と共に進みました。
道中の発見:
- 崩壊したアパートの一室:
- 許可を得て立ち入った一室では、当時の家具やテレビがそのままの状態で確認されました。
- 木下さんによれば、閉山時には船便で持ち出すよりも新しい場所で買う方が安く、島民たちは多くの家財道具をその場に残していったとのことです。
- 近隣の病院:
- 65号棟のすぐ近くに位置していた病院は、1~2階が処置室、3階が入院部屋、4階がナースの寮という構造でした。
- ナース寮は男性禁制で、壁には男性避けのための仕組みが設置されていたという独特の設計が印象的です。
65号棟で見つかった貴重な遺物と島民の生活
新聞記事の発見: 探索中、65号棟内で閉山前の貴重な資料となる新聞が発見されました。記事には、当時の田中角栄首相に関する国会の内容が記されていました。
新聞に関する考察:
- 保存状態: 建物内で発見されたため、紙の状態が比較的良好でした。
- 由来: 公園などには新聞は見当たらず、風で部屋から飛ばされたものと考えられています。
- 処置: 島外への持ち出しは禁止されているため、画像と映像で記録し、長崎市の職員へ提出されました。
駐在所と牢屋:
- 65号棟には常時2名の駐在員が常駐しており、簡易な牢屋も設置されていました。この牢屋は主に酔っ払いの反省部屋として使用され、犯罪者が入ることはほとんどありませんでした。
屋上の保育園:
- 保育園は屋上に設置されており、子どもたちは毎日階段を上り通園していました。
- 屋上には滑り台などの遊具もあり、子どもたちの憩いの場となっていました。
元島民が語る65号棟での生活
木下さんや高比良秀信さんは、65号棟の公園で遊んだり、屋上でソフトボールを楽しんだりした思い出を語りました。木下さんはこう振り返ります。
「この建物にはすべてが揃っていました。屋上で滑り台を滑ったことや、友達と遊んだ日々が懐かしいです。」
65号棟の現状と保存活動
崩壊が進む65号棟:
- 現在、65号棟の多くの部分が崩壊しており、屋根や壁はほとんど残っていません。
- 3年前に「博士ちゃん」で訪れた際には、屋根が残っていた場所も今回の探索では崩れていることが確認されました。
ドローン撮影: 屋上の滑り台や保育園の跡地を含めた全景をドローンで撮影。建物の全貌や周囲の状況が映像に記録されました。
65号棟の意義とその未来
65号棟は、軍艦島がかつて「小さな都市」として機能していたことを示す象徴的な建物です。この建物には、炭鉱労働を支えるだけでなく、住民同士の繋がりを深めるための設計が随所に施されていました。
発見された資料や遺構は、軍艦島の豊かな歴史を後世に伝える重要な手がかりとなります。崩壊が進む中で、これらの記録をどのように保存していくかが、今後の課題となっています。
島民が愛した軍艦島グルメと「クジラジャガ」の物語
軍艦島とクジラ肉文化
軍艦島で生活していた人々にとって、クジラ肉は非常に身近な存在でした。当時、長崎県は全国で最もクジラ肉を消費する地域であり、軍艦島でも日常的な食材として親しまれていました。その中でも特に人気があったのが「クジラジャガ」です。
クジラジャガとは:
- 基本の食材: クジラ肉とじゃがいもを煮込んだ家庭料理。
- 軍艦島の子どもたちにとっての特別な一品: 主に親たちのおつまみとして作られたものを、子どもたちが少し分けてもらうのが楽しみだったといいます。
- 栄養価: タンパク質が豊富で、限られた食材を有効活用する島の生活にぴったりの料理でした。
ガイドの木下稔さんは、当時を振り返りながらこう語ります。
「親父が焼酎を飲みながら食べていたクジラジャガをよくつまみ食いしました。島の生活の味そのものです。」
軍艦島の飲み物文化:「ビー酎」
島民の生活には、食事と共に楽しむ飲み物文化も根付いていました。その中でユニークなのが「ビー酎」という飲み物です。
ビー酎とは:
- 作り方: ビールと焼酎を混ぜて飲む、島独特のスタイル。
- 背景: 島での生活では、食材や飲料を無駄なく活用する工夫がされており、「ビー酎」もその一環と考えられます。
- 木下さんの思い出: 「親たちはビー酎を飲みながら夜を過ごしていました。特別なお酒というわけではなく、日常的なものでした。」
クジラジャガを求めて長崎新地中華街へ
軍艦島の探索を終えた一行は、かつての味を再現した「クジラジャガ」を求めて長崎市内の新地中華街へ足を運びました。
新地中華街の特徴:
- 約70軒以上の飲食店が並ぶ長崎のグルメスポット。
- ちゃんぽんや皿うどんなど、長崎名物が揃う一方で、鯨料理を扱うお店も存在します。
道中では地元の和菓子店「双葉屋」を訪れ、「食べ歩きカステラ」を購入。店主から「中華街の外れにある割烹『とんぼ』ならクジラジャガがあるかもしれない」という情報を得て、早速向かいました。
鯨料理専門店「割烹 とんぼ」での再会
情報を頼りにたどり着いた「割烹 とんぼ」は、鯨卸販売店の女将・小嶺弘子さんと板前の店主が営むお店でした。ここでは、30種類以上の鯨料理が提供されており、一行はついにクジラジャガと再会しました。
「割烹 とんぼ」の特徴:
- 豊富なメニュー: 鯨の刺身盛り合わせ、鯨ステーキ、クジラジャガなど。
- 店舗の雰囲気: 老舗ならではの落ち着いた空間で、鯨料理をじっくり楽しむことができます。
- 長崎名物: クジラ肉はもちろん、角煮まんじゅうや肉まんも人気メニューとして取り揃えています。
食事の様子: 一行は、「クジラの刺身盛り」と「クジラジャガ」を堪能しました。クジラジャガを口にしたガイドの高比良さんは感慨深げに語りました。
「この味です。この甘辛い煮汁とクジラの柔らかさが、昔と変わらないですね。軍艦島の生活を思い出します。」
クジラジャガが持つ意味
クジラジャガは、ただの郷土料理ではなく、軍艦島で生きた人々の思い出を繋ぐ味でもあります。長崎県全体で消費されるクジラ肉は、かつての日本の食文化を象徴しており、その中で「クジラジャガ」は軍艦島ならではのユニークな逸品でした。
料理が伝える島民の生活:
- 限られた資源を工夫して活用する生活の知恵。
- 家族やコミュニティのつながりを深める存在。
- 過酷な環境での癒しとしての役割。
未来への継承
今回の旅を通じて、「クジラジャガ」という料理が持つ歴史的な意義が再認識されました。その味は、ただの料理ではなく、軍艦島で暮らした人々の記憶を語り継ぐ重要な文化遺産です。
現在では、「割烹 とんぼ」を訪れることで、当時の味を体験し、その背景にある物語を知ることができます。クジラジャガを食べることは、過去の軍艦島の生活に触れる一つの方法と言えるでしょう。
謎の施設「めがね」と最大の娯楽施設「昭和館」の探索と発見
木下さんの家族と「めがね」「昭和館」
軍艦島の思い出深い施設「めがね」と「昭和館」は、木下さんの両親の職場でもありました。母親が働いていた「めがね」とは、廃棄物処理に関わる場所でした。一方、父親が勤務していた「昭和館」は、島内最大の娯楽施設であり、映画館として住民たちに愛されていました。
「めがね」と呼ばれた施設の探索
「めがね」の役割:
- 廃棄物処理場としての役割
リアカーで集められた残飯や紙、木片などの廃棄物を処理する場所でした。当時、島では石油製品によるゴミはなく、捨てられるものは自然由来のものが多かったといいます。 - 名前の由来
「めがね」と呼ばれる理由について、木下さんは「この場所から高島がよく見えるからではないか」と語りました。その景観が「眼鏡」に見立てられたのかもしれません。
探索中の発見:
- 削り落とされた階段跡
現在では施設の多くが崩壊しており、かつての階段が削り落とされ、建物の形状をわずかに想像させるだけの状態でした。 - 海に近い立地
ゴミを効率よく海へ流すため、海辺に設置されていたことが確認されました。
最大の娯楽施設「昭和館」の探索
「昭和館」とは:
- 映画館としての役割
昭和館は、軍艦島唯一の映画館であり、住民たちが最新の映画を楽しむために集まる娯楽の中心地でした。
九州最速の封切館:
- 九州内でも特に早いタイミングで新作映画を上映していたことで知られ、長崎市からわざわざ訪れる人もいたといいます。
- 「博士ちゃん」での情報によれば、「ターミネーター」などの人気作もいち早く上映されていました。
父親の仕事:
- 木下さんの父親は映写技師として働いており、映画のフィルムを管理する責任がありました。
- 木下さんのエピソードでは、外に転がったフィルムを拾いに行った際、波にさらわれたものの、運良く波で戻されたという衝撃的な体験も語られました。
現在の「昭和館」:
- 公民館の近くに瓦礫として残る部分が確認されました。切符売り場や建物の基礎部分がわずかに形をとどめています。
- ドローン撮影によって、施設全体の構造を俯瞰し、残存する遺構を記録しました。
島を離れるときの島民たちの思い
最後の日の記憶:
- 郵便局員だった松森哲さんは、島を離れる日を振り返り、「17時にすべてのランプが消えたとき、全てが終わったと感じました」と語りました。その瞬間、島全体が静寂に包まれ、多くの人が涙を流したといいます。
木下さんたちの思い:
- 「もっときれいな島だったことを伝えたい」と、木下さんは崩壊が進む軍艦島の現状を見つめながら語りました。彼にとって、現在の軍艦島は、かつての活気に満ちた島の姿とはかけ離れているものの、当時の記憶を伝えるための大切な存在であるといいます。
軍艦島のエンディング:島民たちの記憶と未来への伝承
軍艦島は、かつての栄光を残す遺構でありながら、島民たちの記憶の中では「豊かなコミュニティと誇りに満ちた場所」として輝き続けています。「めがね」や「昭和館」といった場所は、単なる施設ではなく、そこに生きた人々の物語を紡ぐ舞台でもありました。
現在、軍艦島は自然災害や老朽化の影響で崩壊が進んでいますが、こうした遺構や思い出を次世代にどう伝えるかが課題となっています。それは、単に軍艦島の歴史を保存するだけでなく、日本の近代化の一翼を担った人々の生活の痕跡を後世に残すための重要な使命と言えるでしょう。
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